名右衛門
− 郷土を旅する歴史団  − 2018年4月20日

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後北条氏
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群馬県 > 高崎城(たかさきじょう)

城と館

戦国時代、井伊直政が築城

 高崎は王朝時代赤坂の荘を称し、東山道に属していたが、この地方の中心地とまでにはいっていなかった。
 13世紀、鎌倉時代和田氏が城を築いてここに居るに及んでようやく地方の中心的存在となり、16世紀の末期、天正18年、 小田原の北條氏と運命をともにするに至るまで、和田城は三百数十年の歴史を誇った。
 慶長3年、井伊直政が箕輪城12万石の城主から移って、城主となるに及んで和田の地を高崎と改めた。成功高大の義である。 この時代、城地の規模を拡張し、中仙道第一の壮大さは、交通の要衝たることと相伴なって、要害の名をうたわれた。中仙道は のち中山道と改称された。
 後、酒井、安藤ら数代の城主を経て大河内氏十代の居城となり、明治維新王政復古により廃城となった。大河内氏は初代城主 輝貞から第十代輝聲に至るまで、幕政時代ではあるが文治の城主だった。
 明治6年、東京鎮台高崎文営が置かれ、旧場内は兵営となった。 ついで明治17年歩兵第15聯隊が創設され、以来昭和20年 8月太平洋戦争の終結まで、高崎は60余年間、軍都の観を呈した。その間、大小の戦役に従い、特に太平洋戦争には東部第38部隊 となり、歩兵115聯隊をはじめ大小あまた部隊の基幹部隊をなした。滅私奉公、国家護持のために散華の郷土出身将兵は実に5万、 兵どもが夢の跡とうたった古人の名句が偲ばれる。

『高崎城記』説明より抜粋

高崎城

高崎城の本丸は、烏川の縁りに近いところ(現在の日本たばこ産業倉庫、NTT別館付近に土塁と堀をめぐらし、 その4隅に、西側の土塁の中央に建てられた3層(3階建て)の櫓を取り囲むように4棟の隅櫓を配していた。 その乾(北西)の角にあったのがこの櫓である。
 2層(2階建て)で、本瓦葺き入母屋造りの屋根をのせ、腰屋根をめぐらした平入りの建物であり、梁間2間 (12尺)桁行3間(18尺)の規模である。外壁は柱を塗り込めた大壁で、白漆喰で仕上げている。現状は、 初層(1階)の西壁(当時とは方位は逆)中央(中の間)に土戸を引く戸口を設け、初層のこの壁以外の3面と 2層の4面には、それぞれ太い竪格子をはめた窓を2ヶ所ずつあけている。ところが、明治6(1873)年に、 城内に置かれた東京鎮台高崎分営(15連隊の前身)を撮影した写真では、初層の正面(東壁)右の間に戸口があり、 左の間には同様な窓1ヶ所が認められる。妻飾りは狐格子で、破風板に懸魚をかけている。
 高崎城の築城は、慶長3(1598)年、井伊直政によって着手されるが、その後、藩主は目まぐるしく替わり、 元和5(1619)年に安藤重信が入部して、元禄8(1695)年まで3代にわたって在城し、城と城下町の整備に あたっている。享保(1716〜1736)ころの著作という「高崎城大意」には、3代の重博が、平屋の土蔵の 様でしかなかった乾櫓を2層の櫓に改築したとの記事があるが、これと様式的に見ても矛盾はなく、17世紀末の建築 と推定されている。  

『高崎城乾櫓』説明より抜粋

■高崎城
高崎城

外観

 

乾櫓と東門

 

乾櫓

 

東門

石垣

 高崎城16の城門中、本丸門、刎橋門、東は平屋門であった。そのうちくぐり戸がついていた のは東門だけで通用門として使われていた。
 この門は寛政10年正月(1798年)と天保14年12月(1843年)の2度、火災により焼失し、 現在のように立て直されたものと考えられる。くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。門は築城当初のものより かなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなっている。  

『高崎城東門の由来』説明より抜粋



住所群馬県高崎市高松町
時間
休日
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駐車場
2016年2月現在


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