名右衛門
− 郷土を旅する歴史団  − 2018年4月20日

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神奈川県 > 怒田城跡(ぬたじょうあと)

城と館
東海道

衣笠城支城

弥生時代の貝塚「吉井貝塚」でもある。

怒田城跡

 平安時代の前9年の役(1051〜1062)で軍功があったことにより平為道は三浦半島を与えられ、 以後、三浦氏を称したと伝えられています。三浦一族は衣笠城を本城として、平作川流域に大矢部城や佐原城など、 いくつかの支城を築きました。そのひとつで、最も海に近く位置しているのが怒田城です。
 1180年、源頼朝は平氏を打つために挙兵しますが、石橋山の合戦に敗れ敗退します。頼朝側についた三浦一族も平家側に追われ、 衣笠城にたてこもります。この際、和田義盛は衣笠城より要害の地である怒田城にたてこもることを進言したようです。 『延慶本平家物語』には「怒田城こそ、廻は皆石山にて一方は海なれば、吉者百人計たにも候はば、12万騎寄りたりとも、 くりしかるましき所」と記され、周囲が急な崖で一方は海に面した地であったことが分かります。
 しかし、一族の棟梁である三浦義明は衣笠城でのたてこもりを主張し、義明の自害により衣笠城は落城します。 世に名高い衣笠合戦ですが、逃がした一族は久里浜から船で安房へと脱出しました。このことは、  久里浜湾の奥にあった怒田城に三浦一族の海上活動の拠点としての役割があったためと考えられます。

『三浦一族と怒田城』説明より

■怒田城跡
怒田城跡

全体図

弥生〜古墳時代の竪穴住居址

北側入口

 

 

貝塚と空堀

 

 

南側入口

竪穴住居址より北側佐原城を望む




住所神奈川県横須賀市吉井1丁目
時間
休日
拝観料
駐車場
2016年1月現在


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