名右衛門
− 郷土を旅する歴史団  − 2018年10月18日

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長野県 > 長谷寺 (ちょうこくじ)

城と館

真田幸隆の菩提寺

真田山種月院長谷寺。天文16年(1547)真田幸隆が上州の長源寺より、伝為晃運和尚を招いて真田氏の菩提寺として建立。

長谷寺

 真田幸隆夫妻、昌幸、幸村の墓がある。

■長谷寺
長谷寺


説明
■真田幸隆・昌幸の墓
幸隆夫妻・昌幸の墓
左奥の黒い墓が、真田幸村(信繁)の墓。

 真田幸隆は永正10年(1513)の生まれと伝えられ、天正2年(1574)吾妻の地に没するまでに真田氏隆盛の礎を築いた。
 昌幸は天文16年(1547)の生まれで、兄信綱、昌輝の戦死により家督を継いだ後に上田城を築き、徳川の大軍を2度にわたり退けた ことは世に知られるところである。関ヶ原の戦いの後、高野山九度山に配流され、慶長16年(1611)再び真田の地を踏むことなくこの世を去った。
 昌幸の長子信之は、上田から松代に移封となった時、松代に菩提所長国寺を建立したが、旧菩提所真田山長谷寺もよく管理され、 幸隆公、幸隆公夫人、昌幸が懇に弔われている。

 真田幸隆 天正 2年5月19日没 享年61歳 笑傲院殿月峯良心大庵主
 真田昌幸 慶長16年6月 4日没 享年65歳 長谷寺殿一翁干雪大居士

 中央が幸隆公、左が幸隆公夫人、右が昌幸公の墓

『真田幸隆・昌幸の墓』説明より


真田幸隆(幸綱)
 天文10(1541)に現在の上田市蒼久保周辺で起こった海野平の合戦(神川合戦)で真田郷を追われ上野(群馬県)に逃れるが、その後武田信玄に従い 信州先方衆として活躍、天文20年(1551)には幸隆の切り崩し工作により砥石城攻略に成功した。天正元年(1573)信玄は53歳で陣中にて没し、 幸隆も翌年62歳で死去した。遺体は自らが開基となった長谷寺に葬られた。

真田昌幸
 天正3年(1575)の長篠合戦で兄信綱・昌輝が戦死し、三男の昌幸が真田家を継いだ。天正13年(1585)に上田城を築城。同年及び慶長5年(1600)の 2度の上田合戦では徳川の大軍を退けている。その後、高野山九度山(和歌山県)へ二男の信繁(幸村)とともに配流となり、慶長16年(1611)65歳で死去した。 遺髪や爪等が国元に送られ、長谷寺にある父幸隆の墓の脇に埋葬されたと推定される。

『市指定史跡  真田幸隆・昌幸の墓』説明より





住所 長野県上田市真田町長4646番地
時間 −
休日 −
拝観料 −
駐車場 有
2016年7月現在


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