名右衛門
− 郷土を旅する歴史団  − 2018年9月24日

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山梨県 > 円光院(えんこういん)

城と館

甲斐五山の1つで、武田信玄正室、三條夫人墓所がある

臨済宗妙心寺派。
円光院は、武田信玄公の先祖・逸見太郎清光が創建、清光院と号し、小石和に在り後、 武田信守が父・信重の牌寺とし、成就院と改め、永禄3年(1560)信玄公が当地に移し甲斐五山の1つ 円光禅院と改めた。
 元亀元年(1570)7月28日、信玄公正室 三条夫人が50才で逝去、円光院殿梅岑宗イ大禅定尼と号す。 三条夫人は京都の公家・三条公頼の次女で今川義元の媒酌で、天文5年(1536)16才で晴信(信玄)公と 結婚した。義信・信親(竜宝)・信之・黄梅院(北条氏政夫人)見性院(穴山梅雪夫人)を生んだ。
 信玄公は、天正元年(1573)4月12日伊那駒場の陣中にて53才で世を閉じた。
 その時、馬場美濃守信春に遺命され当院に刀八毘沙門天・勝軍地蔵尊の陣中守護本尊・愛用の茶器と茶釜一口、 武田家源氏系図を寄贈された。
信玄公の遺骸は当院門外の土屋右衛門の邸で密葬、3年後恵林寺へ改葬されたが安永8年密葬の場所を代官 中井清太夫が発掘、いまに残る墓石が建立された。
以来4月12日の忌日回向ほか供養を地元の人々と当院で営んでいる。

『円光院』説明より

円光院
■円光院
円光院

参道
 

夫人墓所碑

夫人墓所史跡碑

武田晴信公夫人三條氏は大永元年(1521)三條公頼公の二女として京都三條邸に生れた。
三條家は清華七家の一で極官は太政大臣、父の公頼公は明応4年の生まれで永正7年叙爵、同11年従三位権中納言、年26歳の時 夫人は公頼公の二女として生まれた。姉は細川晴元夫人であり、妹は本願寺光佐(顕如)上人裏方である。(教如、准如の母如春尼である)
天文5年16歳にして同年令の武田晴信公に嫁した。媒酌は駿河守護今川義元であった。この年晴信公は元服して従五位下に叙せられた。 晴信公夫人となった三條氏は夫との間に太郎義信公、二郎信親公、三郎信之公の三子を儲けた。 二郎は盲人であり、三郎は早世した。長子義信公は聡明剛毅の質で父を辱めぬ偉材であったが、夫人を今川家から迎えたため駿河経略に関して 父晴信公と意見が対立し、不幸な運命を辿らざるを得なかった。母としての三條氏の痛恨察するに余りがある。二男信親公は半僧半俗の身分として 聖道様といわれ、のち信州海野家を嗣いだが人格玉の如く慈愛に満ちた性格であったというこの人も武田家の運命に殉じたが武田家の正統は信親公 により今日に継続され、その原づくところが一向宗の僧となった信親公の嫡子信道公に在ることを思えば三條夫人が妹婿本願寺光佐上人と武田氏 との連繋の楔として大きな役割を果したことと関連して夫人が武田家のために内外に於ける立場をよく利用して大いに尽くされたことが偲ばれる。
晴信は夫人の生前、その牌所として府中五山の一、円光院を宛て、夫人をその開基とした。この寺はもと成就院と言い、八代郡小石和にあったという。
これを永禄年間に晴信公が甲府五山を定めるに際して甲府に移し円光院と改め説三和尚を東光寺より請じて開山とし夫人三條氏を開基としたのである。
元亀元年7月28日、三條氏が50歳にして歿すると晴信公は説三和尚を導師に、快川国師その他の名僧を請じて盛んな葬儀を執行した。 その時営んだのがこの墓であるといわれる。
法名を 円光院殿梅岑宗イ大禅定尼 という。

『武田晴信公(信玄)室三條氏墓』説明より抜粋

円光院

墓所外観

 


住所 山梨県甲府市岩窪町500−1
時間
休日
拝観料
駐車場
2007年2月現在


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