名右衛門
− 郷土を旅する歴史団  − 2018年4月27日

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山梨県 > 内藤修理亮昌豊屋敷跡 (ないとうしゅりのすけまさとよやしきあと)

城と館

上野国 箕輪城主として上杉・北条を牽制

内藤修理亮昌豊屋敷跡。?〜天正3年5月21日。

内藤修理亮昌豊屋敷跡

 武田家の譜代家老工藤氏の出身で、もとは工藤源左衛門尉と称した。なお、実名は昌秀が正しい。信玄の側近、 奉行として重用され、重要な作戦のほとんどに参加した。永禄6年(1563)に信濃国深志城(現在の国宝松本城 の前身)代となり、永禄末年ごろ、名族内藤家の名跡を継ぎ、修理亮を称した。元亀元年(1570)に、上野国 箕輪城代となり、上杉・北条両氏の動向を監視する役割を担った。信玄は、昌豊に250騎を預けて、関東方面軍を 編制した。天正3年(1575)の長篠の戦いで戦死した。昌豊の家督は、養子の修理亮(のちに大和守)昌月(まさあき) (実は保科正俊の子)が相続し、勝頼の側近、奉行として、また箕輪城代としても活躍した。昌月は、武田氏滅亡後、 北条氏に仕え、天正16年(1588)5月25日に箕輪城で死去した。

『内藤修理亮昌豊屋敷跡』説明より

■内藤修理亮昌豊屋敷跡
屋敷跡

内藤昌豊


住所 山梨県甲府市屋形3丁目5
時間
休日
拝観料
駐車場
2016年3月現在


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