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2024年10月9日
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御城印
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道三塚
城と館
御城印
斎藤道三の墓
長良川の戦いの後、埋葬されたが、洪水がたびたびあったため、移送された。
道三塚
美濃国の英傑・斎藤道三は、父・長い新左衛門尉の跡を継いで、守護代、斎藤の名字を名乗り、国盗りに向けて勢力を伸ばしてきました。 天文13年(1544)には、稲葉山城下まで攻め込んできた織田信秀の率いる尾張の国中の軍勢を撃退します。天文17年(1548)に和睦、 その後に道三と正室・小見の方は、可児郡明智の城主、明智光継の娘と伝えられており、明智光秀の伯母にあたります。光秀が道三に砲術の指南を 受けていたという伝承は、道三と光秀が婚姻関係にあったことと何か関連があるのかもしれません。
天文19年(1550)頃、道三は美濃国の守護、土岐頼芸を大桑城から追放し、美濃国の戦国大名となりました。天文23年(1554)には、 息子の義龍に家督をゆずり、自身は鷺山城に隠居したと伝えられています。しかし、道三が義龍の弟二人を尊重し、義龍をないがしろにしたため、 両者は次第に不仲になります。天文24年(1555)、義龍は弟二人を殺すと、道三は仰天し、軍勢を集め町を焼き払い、山県郡の山中(大桑城か)へ撤退します。
弘治2年(1556)、長良川の戦いにて道三と義龍が対決します。4月18日に道三は鶴山に布陣、4月20日に道三と義龍は長良川で対陣すると、 中の渡しで激戦が繰り広げられます。また、土居口という場所で戦いが行われたという史料も確認されています。
合戦は、最終的に義龍に軍配が上がり、道三は敗死します。道三の遺体は、崇福寺の西南(現メモリアルセンター付近)に埋葬されましたが、塚はたびたび長良川の洪水に見舞われたため、 天保8年(1837)に常在寺の住職によって現在の場所に移されました。
■道三塚
道三塚
斎藤道三の墓
説明
住所
岐阜県岐阜市長良福光2494
時間
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休日
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拝観料
-
駐車場
無
2020年6月現在
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