1501 -1521 |
文亀 -永正年間 |
塩見(横山)氏が、天田郡に移住し勢力を拡大し、大膳太夫頼勝の子 頼氏が、曽我井の地に横山城を築造したという。 |
1565 |
永禄8年 |
丹波黒井城主 赤井(荻野)直正が、横山城の塩見氏を滅ぼしたという。 |
1575 |
天正3年 |
織田信長、明智光秀に丹波・丹後の平定を命ずる。明智光秀、荻野直正が籠もる氷上郡 黒井城を包囲する。 |
1576 |
天正4年 |
多紀郡の波多野秀治の軍が裏切り、光秀は撤退する。 |
1578 |
天正6年 |
荻野直正病死。明智光秀、波多野秀治が籠もる八上城を取り囲む。 |
1579 |
天正7年 |
明智光秀、八上城を落とす。鬼ケ城を攻める。赤井氏が籠もる黒井城を落とす。織田信長に丹波平定を復命する。 |
1580 |
天正8年 |
明智光秀、天寧寺(福知山市)の諸式を免許し、陣取・竹木伐採等を禁止する。織田信長、明智光秀に丹波を所領として与える。明智光秀、この頃、横山の地に城館をたて福知山と命名したという。
明智秀満を城代に任命する。 |
1581 |
天正9年 |
明智秀満、福知山城で津田宗及、明智光秀、細川藤孝・忠興を振舞う。明智光秀、家中軍法を定める。明智秀満、光秀が天寧寺へ出した判物の内容を確認する。 |
1582 |
天正10年 |
明智光秀。京都本能寺にて織田信長を討つ、まもなく山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ討たれる。羽柴秀吉、丹波・丹後付近の光秀横領の地を細川藤孝の知行地として認める。
明智光秀死後、福知山城を羽柴秀長の家臣 桑山重晴・青木一矩が管理したという。 |
1584 |
天正12年 |
この頃、杉原家次、近江坂本城から福知山城に入る(天正11~12年頃)。杉原家次、死去。田中吉政、福知山城に入ったと思われる。 |
1587 |
天正15年 |
この頃、小野木重勝、福知山城主となる。 |
1600 |
慶長5年 |
関ヶ原の合戦で西軍に属した小野木重勝は、田辺城に籠もる東軍の細川氏を攻めたが敗れ自害する。有馬豊氏が遠江国横須賀から60,000石をもって福知山城主となる。 |
1620 |
元和6年 |
有馬豊氏、久留米へ転封する。 |
1621 |
元和7年 |
岡部長盛、丹波亀山から50,000石で福知山に入る。 |
1624 |
寛永元年 |
岡部長盛、美濃国大垣へ移る。稲葉紀通、摂津国中島から45,000石で福知山に入る。 |
1648 |
慶安元年 |
稲葉紀通、城内で自害する。 |
1649 |
慶安2年 |
松平忠房、三河国刈谷から45,900石で福知山に入る。 |
1669 |
寛文9年 |
松平忠房、肥前国島原へ移る。朽木種昌、常陸国土浦から32,000石で福知山に入る。以降、幕末まで続く。 |
1873 |
明治6年 |
廃城令によって解体。 |
1985 |
昭和60年 |
小天守と続櫓が完成。 |
1986 |
昭和61年 |
大天守が完成。 |