当寺の創建は室町期、横尾城の東の梅ノ木に横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺と呼ばれ、
横尾氏滅亡(上田原合戦)後、真田信綱公が寺を打越に移し、大光智照禅師を迎え大柏山打越寺と名付けられた。
その後昌幸公が長兄信綱公の牌所として寺堂を改築され、大柏山信綱寺と改められた。
開山 大光智照禅師(高山順京大和尚)
開基 真田源太左エ門尉信綱公
『大柏山信綱禅寺』説明より
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■信綱寺
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信綱寺 |
門 |
説明 |
門と墓前の桜 |
墓前の桜 |
天正2年(1574)真田幸隆(幸綱)が死去すると嫡子の信綱が真田家を継いだ。翌年の長篠合戦で武田勝頼軍は
織田・徳川の連合軍に敗れたが、この戦いで信綱は弟の昌輝とともに討死した。真田家の当主となってからわずか1年、
39歳の障害を閉じた。
戦死した信綱の首級は、家臣の白川兄弟が陣羽織に包み、主君着用の鎧胴と愛刀の「青江の太刀」(重要文化財・真田宝物館所蔵)とともに
信綱寺へ運び、首級と鎧胴を桜の樹下に埋葬して手厚く弔った。この場所は現在では「墓前の桜」と呼ばれている。
享保2年(1717)寺の移築に伴い、墓所は墓前の桜の位置から裏山の現在地に移され、墓石が建立された。また血染めの
陣羽織と最初の墓所から出土した鎧胴は、寺宝として大切に保管されてる。
『市指定史跡 真田信綱の墓』説明より
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■真田信綱の墓
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信綱夫妻・昌幸の墓 |
真田信綱は天文6年(1537)、幸隆の長子として生まれ、父病没の後38歳で家督を継いだが、翌天正3年(1575)、武田勝頼に従い
織田信長と長篠で戦い、弟昌輝と共に戦死した。
信綱の首級は、家臣白川勘解由兄弟の手により陣羽織に包まれ鎧と共に大柏山打越寺まで運ばれ、墓前の桜の下に葬られた。その後打越寺は、
信綱公菩提所として信綱寺と改称された。
享保2年(1717)、寺の移築に伴い、墓所が裏山の現在の場所に移され、夫人と共に懇に弔われている。
近年、夫妻の墓のとなりに昌輝の新しい墓が建立された。
真田信綱 天正 3年5月21日没 享年39歳 信綱寺殿大室道也大居士
真田昌輝 天正 3年5月21日没 享年33歳 嶺梅院殿風山良薫大居士
中央が信綱公、左が信綱公夫人、右が昌輝公の墓
『真田信綱の墓』説明より
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説明 |
中央右の碑「真田源太左衛門尉信綱公墓」
左の碑「滋野信綱公配某氏君墓」
右の碑「真田兵部少輔昌輝夫妻之墓」
とある。
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住所 | 長野県上田市真田町長8100 |
時間 | - |
休日 | - |
拝観料 | - |
駐車場 | 有 |
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2016年7月現在 |
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