当寺の歴史は古く、奈良時代行基菩薩開創と寺伝にある。
龍潭寺のある井伊谷は、古く「井の国」と言われ「井の国の大王」が治めた土地である。
平安時代井伊氏の元祖井伊共保が生まれ、井伊氏は遠江の有力武士として、すでに保元物語にその名を連ねている。
鎌倉時代、源頼朝に仕え、南北朝時代には後醍醐天皇皇子、宗良親王を井伊城に迎え北朝軍と戦った名門である。
室町時代二十代井伊直平に帰依された黙宗瑞淵禅師が新たに龍潭寺の開山となり、遠州地方に京都妙心寺の流れをくむ
臨済宗を広め、臨済宗妙心寺派の法灯を伝えている。
二十四代井伊直政は徳川家康に仕え、井伊の赤鬼と恐れられる活躍をした。この直政を後見人として養育したのが、
二十二代井伊直盛の一人娘井伊直虎である。龍潭寺二世南渓和尚の計らいで女城主として井伊家を支え、お家断絶の危機
から救った。後に直政は徳川四天王の筆頭に出世、関ヶ原合戦の後、彦根に移る。
幕末井伊大老直弼が開国の偉業をなしとげる。龍潭寺は、その千年余り、四十代の祖霊を祀る井伊家の菩提寺として、
彦根龍潭寺と共に、その歴史を今日に伝えている。
『龍潭寺「縁起」』より
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■龍潭寺
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龍潭寺庭園 |
大門(山門) |
旧鐘楼堂(1631年建立) |
■井伊家
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井伊家の墓所 |
(左より)井伊直政、直親妻、直親、直虎、直盛妻 |
左 : 井伊直盛(直虎父)、右 : 井伊共保(初代) |
井伊家霊廟(左より)井伊直政、直盛、共保 |
井伊直政公出世之地 碑 |
■重臣
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新野左馬之助 |
右より10代 奥山親朝、11代 朝利、12代 朝宗 ※奥山朝利は井伊直政の祖父 |
桶狭間戦死者之墓 ※右、井伊直政叔父:小野玄蕃(朝直) |
中野氏4代之墓、3代中野直由は直親後見役 ※4代 直之は直虎を支える |
井伊直満家老 今村藤七郎(正実)一族之墓 ※藤七郎は亀之丞(直親)を逃がした。 |
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■住職
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龍潭寺住職之墓 |
南渓瑞聞 之墓 |
■井伊谷三人衆
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永禄11年(1568)12月15日、徳川家康は、井伊谷三人衆の先導で豊川、宇利を経て、三河遠州境の陣座峠を越え、奥山へ入り井伊谷城を攻めます。
当主不在の城はあっさり落ちます。家康は兵を整え瀬戸、三方原を経由し12月18日引馬城(浜松城)を攻略、念願の遠州信仰を果たし、
いよいよ天下取りに向け大きく一歩を踏み出しました。
この時家康を援けたのが、のちに井伊谷三人衆とよばれた奥三河の土豪 鈴木重時(新城市山吉田城主)、菅沼忠久(都田在・田峯菅沼の分家)、近藤康用(新城市宇利城主)です。
三人は今川の配下で、この時期井伊氏の与力として仕えていましたが、今川氏真が井伊氏を滅亡させようとする仕打ちに腹を立てていました。
そこへ家康が恩賞を厚くし、徳川方につくように誘います。そこで三人は家康に内応し、家康の遠州進攻を援けたのです。
三人衆は龍潭寺で葬られ、この墓所の奥に祀られています。井伊氏が彦根に移りますと、三人衆のうち近藤家が幕末までここ井伊領を治めていました。
『徳川家康の遠州進攻を援けた井伊谷三人衆この地に眠る』より
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鈴木重時 之墓 |
菅沼忠久 之墓 |
近藤康用 之墓 |
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住所 | 静岡県浜松市北区引佐町井伊谷(いなさまちいいのや)1989 |
時間 | 9:00~16:30(17:00閉門) |
休日 | - |
拝観料 | 大人 500円 |
駐車場 | バス 10台・乗用車 80台(無料) |
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2017年4月現在 |
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