名右衛門
- 日本郷土の歴史を学ぶサイト - 2024年4月20日

名右衛門
更新情報
御城印
目次
郷土の歴史を学ぶ
北海道
 北海道
東北
 青森県
 秋田県
 岩手県
 山形県
 宮城県
 福島県
関東
 栃木県
 群馬県
 茨城県
 千葉県
 埼玉県
 東京都
 神奈川県
 山梨県
信越
 新潟県
 長野県
北陸
 富山県
 石川県
 福井県
東海
 静岡県
 愛知県
 岐阜県
近畿
 和歌山県
 三重県
 滋賀県
 京都府
 大阪府
 奈良県
 兵庫県
中国
 鳥取県
 岡山県
 島根県
 広島県
 山口県
四国
 香川県
 徳島県
 愛媛県
 高知県
九州
 福岡県
 大分県
 佐賀県
 長崎県
 熊本県
 宮崎県
 鹿児島県
沖縄
 沖縄県
家系図調査 (ID/PASS)
リンク集
志士伝
北条早雲情報
管理人 名右衛門とは
・管理人の紹介
メール 勉強中の管理人に
メールを送信する
山梨県 > 原隼人佑昌胤屋敷跡 (はらはやとのすけまさたねやしきあと)

城と館
御城印

武田軍の陣場奉行を務めた知将

原隼人佑昌胤屋敷跡。?~天正3年5月21日。

原隼人佑昌胤屋敷跡

 信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊(はらかがのかみまさとし)の子で、信玄に登用された。武田軍の 陣立てなどを立案する陣場奉行を命じられたといわれ、また信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の 晩年には、山県昌景とともに、武田家最高職である両識を担ったとされる。父昌俊は、九十騎を率いたが、 昌胤は加増されて百二十騎を指揮していた。天正3年(1575)の長篠の戦いで戦死した。家督は、 二代目隼人佑昌栄(まさひで)が継ぎ、勝頼の側近、奉行となり、駿河国沼津城の普請を行っている。 昌栄は、天正8年(1580)10月、勝頼の上野国東部侵攻に従軍し、膳城(前橋市)攻防戦で重傷を 負い、甲府帰還後に死去した。昌栄の跡は、実弟で昌胤の三男で、三代目隼人佑貞胤が継ぎ、武田氏滅亡の 際には、真田昌幸を頼って落ち延びたといわれる。

『原隼人佑昌胤屋敷跡』説明より

■原隼人佑昌胤屋敷跡
屋敷跡

原昌胤


住所 山梨県甲府市屋形3丁目2
時間
休日
拝観料
駐車場
2016年3月現在


Copyright (C) 2008-2024 naemon All Rights Reserved.