更新情報 |
|
|
目次 |
|
|
リンク集 |
|
|
|
|
|
勉強中の管理人に メールを送信する |
|
|
|
|
山梨県 > 原隼人佑昌胤屋敷跡 (はらはやとのすけまさたねやしきあと)
武田軍の陣場奉行を務めた知将
原隼人佑昌胤屋敷跡。?~天正3年5月21日。
原隼人佑昌胤屋敷跡 |
信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊(はらかがのかみまさとし)の子で、信玄に登用された。武田軍の
陣立てなどを立案する陣場奉行を命じられたといわれ、また信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の
晩年には、山県昌景とともに、武田家最高職である両識を担ったとされる。父昌俊は、九十騎を率いたが、
昌胤は加増されて百二十騎を指揮していた。天正3年(1575)の長篠の戦いで戦死した。家督は、
二代目隼人佑昌栄(まさひで)が継ぎ、勝頼の側近、奉行となり、駿河国沼津城の普請を行っている。
昌栄は、天正8年(1580)10月、勝頼の上野国東部侵攻に従軍し、膳城(前橋市)攻防戦で重傷を
負い、甲府帰還後に死去した。昌栄の跡は、実弟で昌胤の三男で、三代目隼人佑貞胤が継ぎ、武田氏滅亡の
際には、真田昌幸を頼って落ち延びたといわれる。
『原隼人佑昌胤屋敷跡』説明より
|
■原隼人佑昌胤屋敷跡
|
屋敷跡 |
原昌胤 |
|
住所 | 山梨県甲府市屋形3丁目2 |
時間 | - |
休日 | - |
拝観料 | - |
駐車場 | - |
|
2016年3月現在 |
|
|
|