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山梨県 > 高坂弾正忠昌信屋敷跡 (こうさかだんじょうのじょうまさのぶやしきあと)
信玄の寵臣で『甲陽軍鑑』の作者
高坂弾正忠昌信。大永7年~天正6年6月14日。
高坂弾正忠昌信屋敷跡 |
高坂弾正の名で知られるが、実際には香坂弾正忠虎綱、後に本姓に戻って春日虎綱と称している。
石和の大百姓春日大隅の子で、天文11年(1542)に信玄に見いだされて近習となり、その後、
使番を経て、天文21年(1552)に足軽大将に抜擢された。翌年には小諸城代に、永禄3年(
1560)ごろ海津城代に任命されるなど、異例の出世を遂げた。高坂弾正は、川中島の豪族を
指揮下に置き、上杉謙信の南下に備えた。永禄4年の川中島の戦いなどで活躍した。天正3年の長篠
の戦いで、山県・馬場らの宿将が戦死したことに危機感を覚え、信玄の言動や行動哲学などをまとめた
書物を書き上げ、勝頼の側近達に贈ったといい、これが『甲陽軍鑑』の原本とされる。天正6年
(1578)の謙信死後、上杉景勝と勝頼の同盟交渉を担ったが、実現しないまま病没した。
『高坂弾正忠昌信屋敷跡』説明より
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■高坂弾正忠昌信屋敷跡
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屋敷跡 |
高坂昌信 |
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住所 | 山梨県甲府市大手3丁目2 |
時間 | - |
休日 | - |
拝観料 | - |
駐車場 | - |
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2007年10月現在 |
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