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山梨県 > 内藤修理亮昌豊屋敷跡 (ないとうしゅりのすけまさとよやしきあと)
上野国 箕輪城主として上杉・北条を牽制
内藤修理亮昌豊屋敷跡。?~天正3年5月21日。
内藤修理亮昌豊屋敷跡 |
武田家の譜代家老工藤氏の出身で、もとは工藤源左衛門尉と称した。なお、実名は昌秀が正しい。信玄の側近、
奉行として重用され、重要な作戦のほとんどに参加した。永禄6年(1563)に信濃国深志城(現在の国宝松本城
の前身)代となり、永禄末年ごろ、名族内藤家の名跡を継ぎ、修理亮を称した。元亀元年(1570)に、上野国
箕輪城代となり、上杉・北条両氏の動向を監視する役割を担った。信玄は、昌豊に250騎を預けて、関東方面軍を
編制した。天正3年(1575)の長篠の戦いで戦死した。昌豊の家督は、養子の修理亮(のちに大和守)昌月(まさあき)
(実は保科正俊の子)が相続し、勝頼の側近、奉行として、また箕輪城代としても活躍した。昌月は、武田氏滅亡後、
北条氏に仕え、天正16年(1588)5月25日に箕輪城で死去した。
『内藤修理亮昌豊屋敷跡』説明より
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■内藤修理亮昌豊屋敷跡
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屋敷跡 |
内藤昌豊 |
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住所 | 山梨県甲府市屋形3丁目5 |
時間 | - |
休日 | - |
拝観料 | - |
駐車場 | - |
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2016年3月現在 |
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