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2024年10月9日
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新田義貞の首塚
(にったよしさだのくびづか)
城と館
東海道
御城印
鎌倉を攻め滅ぼした武将
足利尊氏、楠木正成とともに鎌倉を攻めた武将。
新田義貞の首塚
建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、 足利尊氏によってその首級を晒されていた。
義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、 主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。
しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。 そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。
その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって 復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。
なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。
『新田義貞の首塚』説明より
■新田義貞の首塚
新田義貞の首塚
新田義貞の首塚の碑
旧東海道にある案内図
説明がある小道奥の右手公園
左右にも墓らしいものがある
住所
神奈川県小田原市東町4丁目5 公園横
時間
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休日
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拝観料
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駐車場
無
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