- 日本郷土の歴史を学ぶサイト -
2024年11月21日
更新情報
・
御城印
目次
・
郷土の歴史を学ぶ
北海道
北海道
東北
青森県
秋田県
岩手県
山形県
宮城県
福島県
関東
栃木県
群馬県
茨城県
千葉県
埼玉県
東京都
神奈川県
山梨県
信越
新潟県
長野県
北陸
富山県
石川県
福井県
東海
静岡県
愛知県
岐阜県
近畿
和歌山県
三重県
滋賀県
京都府
大阪府
奈良県
兵庫県
中国
鳥取県
岡山県
島根県
広島県
山口県
四国
香川県
徳島県
愛媛県
高知県
九州
福岡県
大分県
佐賀県
長崎県
熊本県
宮崎県
鹿児島県
沖縄
沖縄県
・
家系図調査
(ID/PASS)
リンク集
・
志士伝
・
北条早雲情報
・
名右衛門とは
・管理人の紹介
勉強中の管理人に
メール
を送信する
神奈川県
>
新田義貞の首塚
(にったよしさだのくびづか)
城と館
東海道
御城印
鎌倉を攻め滅ぼした武将
足利尊氏、楠木正成とともに鎌倉を攻めた武将。
新田義貞の首塚
建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、 足利尊氏によってその首級を晒されていた。
義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、 主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。
しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。 そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。
その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって 復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。
なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。
『新田義貞の首塚』説明より
■新田義貞の首塚
新田義貞の首塚
新田義貞の首塚の碑
旧東海道にある案内図
説明がある小道奥の右手公園
左右にも墓らしいものがある
住所
神奈川県小田原市東町4丁目5 公園横
時間
-
休日
-
拝観料
-
駐車場
無
2016年3月現在
Copyright (C) 2008-2024 naemon All Rights Reserved.