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- 日本郷土の歴史を学ぶサイト - 2021年7月26日

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京都府 > 聚楽第(じゅらくてい)

城と館
御城印

豊臣秀吉の城
聚楽第は「じゅらくてい」と読みます。「じゅらくだい」というてもかましまへん。
聚楽第はいまから430年余り前に太閤秀吉はんがこの辺りにお建てにならはった建築群で、いまの二条城みたいに濠と石垣で囲まれてたんで外見は 御城みたいどした。中には行幸御殿、天守御殿、その他の屋敷群、茶屋などが建てられ、池と庭園がおました。それはようでけてたらしいどす。
ここ(裏門通り)は聚楽第の西側の濠があった場所どす。ここから250メートル東、いまハローワークやユニクロがあるところ(大宮通り)に東側の 濠がありました。そのハローワークを建てるときに地面を掘ったら聚楽第屋敷の瓦が出てきました。瓦には金箔が貼られていて、いまは国の重要文化財に なってます。それを記念してハローワークの向かいに「聚楽邸址」の石碑が建ってます。
その石碑(東濠跡)と、いまご覧のこちらの石碑(西濠跡)との間が聚楽第のあった場所やったということになります。
聚楽第は竣工して8年後にある理由で取り壊されてしまいました。当時の記録も余りあらしまへんので、ほんまはどうやったんかよう分かりまへん。
この石碑のおかげでこの辺りに聚楽第があったんやということが分かるだけどす。

『聚楽第』説明より

         
2020/12/13
聚楽第

 かつてこの一帯には、平安時代に平安宮(大内裏)があったことから「内野」とよばれていた。 その後、安土桃山時代に平安宮跡北東部分、豊臣秀吉によって築かれた聚楽第と呼ばれる城があった。
 秀吉は、羽柴秀吉と名乗っていた天正14年(1586)に、聚楽第の築城を開始し、翌15年に正室の北政所(おね)母の大政所とともに大坂城から移り住み、 政務を執るようになった。その後、秀吉と甥で後継者である秀次の二代にわたる関白の城として使われ、豊臣家による洛中支配の象徴として機能した。
 この城は幅20mあら43m深さ6mから8mもある水を湛えた大規模な濠と石垣に守られ、白壁の土塀や多重櫓で囲まれた内側に、檜皮葺の本丸御殿と 金箔瓦で飾られた天守や櫓が聳える絢爛豪華な城郭であった。城は内郭と外郭の大きく2つに分かれ、内郭はさらに本丸、南二之丸、北之丸、西之丸に分かれる。
 これまでの考古学的な調査により、この石碑の立つ本丸西側の濠をはじめ、本丸の東側と南側の濠、南二之丸の南側と西側の濠、さらに北之丸の北濠と石垣などが 明らかにされた。特に本丸東側の濠跡からは多量の金箔瓦が出土し、国の重要文化財に指定されている。天正16年(1588)には後陽成天皇の行幸も 行われたこの豪壮な城郭も秀次の失脚に伴い、築城者である秀吉の命により文禄4年(1595)に破却され、わずか9年の短い歴史を閉じている。

『この付近 聚楽第本丸西濠跡』説明より

■聚楽第
聚楽第


道路向、250メートル東

上杉景勝・直江兼続屋敷跡

住所京都府京都市上京区新桝屋町425
時間
休日
拝観料
駐車場
2020年12月現在


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