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2024年11月21日
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河村館跡
城と館
東海道
御城印
平安時代後期
河村館跡
河村館跡は山城である河村城の根小屋(普段生活する場所)だと考えられます。
河村館跡と称される遺跡の範囲は酒匂川河岸段丘上の岸・湯坂地区一帯に広がり、江戸時代の絵図には、「秀清屋敷」「土佐屋敷」「内記屋敷」などの 記載があります。
これまで、部分的に発掘調査が行われ、東西250m、南北150mに及ぶ居館を方形に囲むと想定される溝が見つかりました。 また、区画の内部からは建物跡なども見つかりました。出土遺物から室町時代後半、15世紀から16世紀頃の跡だと考えられています。
平安時代後期、平将門の乱鎮圧に功績のあった藤原秀郷を祖とし、秦野地方を支配していた、波多野遠義の次男、秀高が当時の山北の地名であった 「河村郷」から名前をとり、「河村秀高」と名乗ったことが、河村氏の始まりだと言われています。
秀高の子、義秀は石橋山の合戦で平氏側につき、勝利しましたが、その後、平氏が源氏に敗れたため、河村氏は領地を没収されました。しかし、 1190(建久元)年、鶴岡八幡宮例祭において、義秀は源頼朝の前で流鏑馬を披露し、領地復帰を許されたと『吾妻鏡』に記されています。
1333(元弘3)年、足利尊氏が鎌倉幕府に反すると、河村氏は新田義貞に従い、倒幕に加わりました。 翌1334(建武元)年、後醍醐天皇による建武の申請が始まりますが、足利尊氏らの北朝方と新田義貞らの南朝方の争いが激しくなる中、 1352(正平7)年、新田義貞、脇屋義治の軍勢が、河村氏の勧めにより河村城に籠城しますが、翌1353(正平8)年には、河村城から 退去したことが『太平記』に記されています。
『河村館跡』説明より
■河村館跡
河村館跡
河村城
室生神社
住所
神奈川県足柄上郡足柄上郡山岸 北町
時間
-
休日
-
拝観料
-
駐車場
有(河村城駐車場)
2020年7月現在
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